慈徳寺のご紹介

上名倉村の西方にあたり、吾妻山系東山麓、荒川左岸の扇頂部から扇央部に位置する。中央を須川の支流鍛冶屋川が流れる。

 天明8 年(1788)の佐原村根元記(古郷之忘形見)によれば、天和元年(1681)から享保3 年(1718)までの新田開発は高九一石余とある。延享3 年(1746)の巡見使案内手鑑(福島市史)では家数87・人数357、馬13。文政11 年(1828)の宗門人別改帳(本田家文書)では家数88、うち寺1・山伏1・本百姓84・水呑2、男246・女209、馬31。天保10 年(1839)の人別改帳(福島市史資料)では家数93、うち寺1・山伏1・本百姓86・水呑5、男231・女209、馬27・牛2。

享保14年の信達一揆に関し、当村の太郎右衛門訴状(福島市史)は重要な史料とされている。この時の弾圧による処刑者は94人に達し、当村では太郎右衛門の江戸・国元からの十里四方追放をはじめ、16 人の処罰者を出している。太郎右衛門は幕吏の目を逃れて江戸に潜行し、目安箱に再度にわたって訴状を入れるなどしたが、捕えられて郷里の当村荒田口で獄門の刑に処された。現在同所には義民終焉の地の碑があり、住居跡近くの手代森には義民堂が建てられている。

荒川の氾濫が毎年のように繰返され、隣村との境界争いや築堤騒動が多く起きている。また堰水浚揚げや秣場・萓刈場紛争も多い(福島市史)。また山麓の地であるため冷害も受けやすく、宝歴5 年(1755)「5 月より8 月迄大雨ふりつづき田畑作方青立皆無に成 人々うへに及 老人等うい死有」といった惨状が繰返された(佐原村根元記)。

曹洞宗慈徳寺の前身は伊達家にゆかりのある寿徳寺で、伊達輝宗を火葬した寺とされ、輝宗の首塚と伝える五輪塔が残る。なお寿徳寺は豊臣秀吉の奥羽仕置で岩手沢(現宮城県岩出山町)に移り、のち仙台に移転した。現慈徳寺は寛文年中(1661 ー73)に小倉村の陽林寺の末寺として再興され、樹齢約300 年とされる種まき桜がある。江戸時代山伏であった天台宗覚寿院がある。旧石器時代の竹ノ森遺跡があり、約10 万年前の安達太良ー松川テフラ層より約10 センチ下位の火山灰層から石器が発見された。現在のところ市内最古の遺跡。

宗派 曹洞宗(公式サイトリンク)
本山 釈迦牟尼仏
本尊 大本山永平寺、大本山総持寺
伽藍 本堂、鐘楼、観音堂、あたご堂、庫裡
古碑 伊達輝宗公首塚(火葬碑)
古木 「慈徳寺の種まき桜」(福島市指定天然記念物、樹齢約280年)
祭礼・行事 観音堂祭礼(4月18日)、除夜の鐘
札所 信達三十三観音第六番札所